BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】No.131「猫を虐待する僧侶に関する件についての一考察」

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  お寺と猫とくれば「山寺の和尚さん」がすぐに思い出される。

 さて、と調べてみるとやはり探求好きな方は世に少なくないようで、たちまちあれこれの情報にネット検索は導いてくれた。

 いわく、早期和製ジャズがオリジナル。

 いわく、江戸期の禅僧・白隠のもとで気が触れてしまった鳥道なる僧の狂態をうたったもの。

 など、手近の検索サイトですぐヒットするのでお好きな方は探してみたらいいだろう。

 で、だれかの二番煎じはきらいな当「よこみち」としては、このネタどう料理しようか。

 どうも「和尚」というモノは一般の方々からすると一種変わった存在のように思えるのだろうか。

 猫を虐待する山寺の和尚さん、カボチャのタネを蒔くお山の和尚さん、子どもたちが家路につく頃になると鐘が鳴る山のお寺。こうして見ると〈山〉〈寺院〉〈僧侶〉というのは一つのカテゴリーの中に収まっていることがわかる。そしてもう一つここに共通するのは多くの場合〈イジリの対象〉ということだ。

 一見、俗世というものから距離を置いたように見える仏僧の世界(あくまで一見だが)。そこでは愛欲、飲食、放楽etcへの志向がのきなみ反対方向を向いていると思われている。そんな〈禁欲〉を看板に掲げていると思われている仏僧たちが、〈ホンネはそんなんじゃないでしょ〉とイジられてるのが「山寺の和尚さん」の姿なのだろう。

 今の芸人達がときどき「もっとイジってちょうだい」と言うのを聞くが、大げさに言えば自己承認欲求みたいなものだろう。揶揄の対象であってもかまわないから私をハブらないで、という心情。里を離れて「山のお寺」にすむ「和尚さん」たちも、だれかに相手にしてほしいと望む気持ちは一緒なのだろう。「かまいたい・かまわれたい」は古今僧俗を問わぬことのようだ。そんな欲求を満たすための動物を〈愛玩〉動物とはよくぞ名づけたものだと思う。

 かわいそうなのは袋におし込められた猫であることは何も変わっていないのだけど。

 

 

【真読】 №131「猫を蓄うことを禁ず」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号56

 猫を飼うは殺生の咎(とが)をもって戒疏にこれを禁ず。密部には『蘇婆呼童子経』の中に曰く、「猫・狸・羖(ひつじ)・羊を蓄うことなかれ、(乃至)かくの如くの人今世・後世に真言を念誦してもまた成就せず」。

よこみち【真読】№130「ガラスのごとき・・・」

「お坊さんって、女性恐怖症じゃない?」
 と、誰かからはっきり聞いたわけでもないし、そんな文章を読んだという定かな記憶があるわけではないが、でも誰かがきっとしゃべっていそうな気がする。少なくとも今回の本編のような文章に触れると自分などはそういう思いをいっそう強くする。
 ある宗派の話だが、といわゆる一般論だと思って読んでいただきたい。修行僧堂道場の立地環境の話である。人里離れた深山幽谷・・とまではいかなくとも、まわりにはなんにもないひっそりしたところにひっそりと伽藍を構える道場がある。一方、都市部の真ん中、ひょいと出て行けば色とりどりのネオンにぎやかな歓楽街に隣接した道場もある。
 ひっそりした方いわく、「祖師たちの教えの通り、このような深閑とした環境にあってこそ真の修行ができるのだ」。
 にぎやかな方いわく、「世俗の塵埃に囲まれたここにおいて清廉な修行に勤めることこそ、いっそう厳しい環境なのだ」。
 こんなやりとり、僧職にない一般に方々にとっては、じと~っと視線を向けたくなるようなものだろう。
 圧倒的に男性の頭数の多い仏教僧の世界で、釈迦の初めから女人は「悪」の役割を負わされてきた、と言っては言い過ぎだろうか。どうしたわけか本編に見るとおり男僧修行者にとって女性はアンタッチャブルな存在と意味付けられることが少なくない。
 これを読んだ女性からすれば、こんな言い分もありそうだ。「なに言ってんの。あんたなんかをどうして誘惑しなくちゃいけないのよ。自意識過剰なんじゃないの」と。
 男女ほぼ半々くらいに分布しているこの世にあって、もっとフランクでフラットな男女の位置関係が修行の場でも保証されていてよさそうなのに、得てして「女人禁制」なる場が多いのはなぜだろう。
 男僧はそれだけふらつきやすい。修行だなんていきがっても所詮その程度。などなどそんな声が頭をよぎる。男僧の貞操なんてほとんどガラス細工のごときもろさに思えてくる。
 親鸞上人のようなスタンスも一手ではあるだろう。
 昔のように、少々のうそっぽさも含みながら「出家主義」を標榜していた時代なら、強がり続ける向きもあるかもしれないが、いまのご時世、ほぼ結婚していることが当たり前となったこの状況下においては「女人」に対する新たなパラダイムができあがってなくちゃおかしいよな、と思うのだが。
 さてご同輩、いかがなものだろう。

【真読】 №130「霊場に女人を禁ず」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号56

 問う、「霊場に女人を禁ずるところ多し。その謂い、如何」。
 答えて云く、「密院には殊に女人を禁ずべし。吾が祖の遺誡にも〈僧房に女人を入るるを禁ずべし〉の一條あり。女人の容色を視れば、行者の心乱れて呪力なからしむ。ゆえに秘経に深く誡めたまう。『蘇婆呼童子経』一に云く〈女人、色をよくして巧みに笑み、嬌(なまめかし)く言い、性、衿荘を愛す。行歩妖艶にして、姿態をもって男子を動かし、心迷惑乱せしむ。真言を持する者、むしろ火星を眼中に流入し、双目を失して盲(めしい)て見る所無くしても、乱心を以て女色を観視し、種々の相好美麗によって、分別すること無かれ。念誦の者をして、威力を無からしめん〉と」。
 私に云く、已上は秘経の本説をもって密院に女人を禁ずるゆえんを出せり。総じて僧房に女人を入るる過(とが)は、『行持鈔』に弁ずるがごとし。

よこみち【真読】№129「ストイックさの彼岸」

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 『真俗仏事編』を読んできて思う一つに、編者子登の現実を見る目が寛容的だということがある。以前、在家の斎会に酒を勧められたらどうする、という話題を扱ったことがあったが、その時にもそう感じた。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/01/15/082444
 仏教者だったら酒は一切ご法度、というのではなく「酒を施すもまた在家の菩薩行」とかなりゆるやかで譲歩的。つまり、僧侶の「あるべき」理想の姿よりも、世俗とともにある「現実的なあり方」に理解がある。
 今回の本編もそう。蚕衣、金襴衣として話題に上げているのは僧侶のまとういわゆる高級志向のお袈裟と言うことだろう。質素な木綿や麻素材の布製ではなく、高価な絹製や金襴織のものを指している。とうぜんここで想定されているのは、当時の僧侶達のようすのはず。「近頃高価な袈裟を身につけている坊主がいるけど、あれってどうよ」というまなざしがここでは背後にある。
 ここで禁欲的な立場から言えば、本編も引いている道宣律師の意見にしたがうはず。しかし子登は、そうした道宣の見解も隠さず紹介しておきながら、なおかつ相対する義浄の見解を引き、加えて『不空羂索経』の文例も挙げて「果上荘厳の衣を受用することもっともかなへり」としめくくる。
 おそらく道宣的な批判のまなざしを感じながら居心地の悪い思いをしていた高級袈裟の僧侶達は、子登の言葉によって溜飲を下げていたことだろう。だからと言って、子登がけっしてそんな輩の太鼓持ちだとは思わない。教条的にストイックさを要求するのではなくて、現実のあり姿に対する優しさにも似た態度があると感じられるだけだ。
 この点、子登と同じ時代にかぶっている冒頭画像の修験者は、私の近在で活躍した人だけど、その肖像でもわかるように、生涯を墨染めの法衣で貫いた。当時、修験者の妻帯世襲もめずらしくなかった当地にあって、自身十四歳の時に、生涯「酒肉男女の欲境に堕せず」黒色の法衣で通す誓願を立て、68年間の一生それを守り通した。
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-861-5.htm
 ストイックさと寛容さと。迷うまでもなく自分は後者の側なんだけど、だからこそ前者を貫く人にそそられるんだな。

【真読】 №129「蚕衣ならびに金襴衣」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

 字書に蚕は蠶と通用す。
 問う、律に拠れば布の袈裟を如法とす。蚕衣の袈裟を用ふるは非法なるか。 答て曰く、道宣律師は蚕衣を制したまい、義浄三蔵は蚕衣を大乗の了義なりとして開したまう。今略してこれを弁ぜん。
 南山道宣律師、天人に蚕衣を如法なるかと問いたまふに、天人の曰く(感通伝)、「蚕衣には殺生の咎あり。いづくんぞ殺生の財を以て慈悲の服とせん」と告げけり。ここにおいて道宣律師の曰く、「『智度論』に、仏、麁布の伽梨(がり・袈裟のこと)を着したまう、とあるを以て見れば、益々麤布の衣を以て如法とすべし。蚕衣はたとい卧具にも用いず。また西来の梵僧を見るに、みな布氈を着せり。梵僧に問えば、〈五天竺国に蚕衣を着することなし〉と云へり。これによって『章服儀』を著し、蚕衣を制して布衣を如法とす」と。
 しかるに義浄三蔵の説(南海寄帰伝)に拠れば、今の氈布に限るを返って小乗有部の偏執なりと誹(そし)り、蚕衣を大乗の了義にかなへりとす。
 義浄三蔵は諸家の崇ぶ所、しからば蚕衣を非法とすべからず。(已上は『資持記』の取意なり。また『南海寄帰伝』二の三葉より四葉を披(ひら)け)
 ○ちなみに問う、金襴の袈裟も義浄の開したまふ蚕衣と同物か。
 答えて曰く、按ずるに同物なれども、また些かの料簡あるべし。金襴衣は果上の薩埵の浄妙の荘厳衣なり。その証文を出さば『不空羂索経』二十九の供養品に「諸天、観音を供養するに不可説の金縷袈裟・衣服の海雲を雨ふらす」と云へり(金縷の袈裟、すなわち金襴の袈裟なり)。しかれば金襴衣は中にも最勝なるを以て、なお大乗の了義とすべし。況んや殊に密宗には初発心に曼荼羅に入って,潅頂を受け、すでに果徳を得たり。果上荘厳の衣を受用することもっともかなへり。

よこみち【真読】№128 大きな声では言えないが、小さな声では聞こえない

 人さし指を口に当てる、このポーズ、「静かにして」という意味とともに、「内緒にして」という意味をも表す。本編では前者のつもりでつかったので、よこみちでは後者といこう。

 その1
 まだスマホなど出回る以前の頃、携帯電話の着信音をおもしろ半分に笑点のテーマにしていたことがある。
 ある結婚式に呼ばれた。少しだが遅れてしまった。ホテルの広間では披露宴が始まったばかりだった。新郎新婦はすでに入場し、広間の入り口は閉じていた。そばにいた係に、ちょっとすまんという仕草を見せて、そっとドアを開け半身を中へ入れた。
 ちょうど媒酌人の挨拶がこれから始まるようで、司会がそのことを告げ、来場者は高砂席を向いている。今ならだれもこっちを見ていない。チャンス。残った半身を滑り込ませようとした時だった。
 “チャッチャカチャカチャカ、チャッチャ♪”
 胸ポケットから軽快な音楽が静かな披露宴会場に鳴り響いた。どこかの会社の社長だという媒酌人が集めるはずの満場の視線は、メインゲートをくぐり抜けようとしていた私に注がれた。

 その2
 近所のお寺に葬儀のお手伝いで伺った時のことである。
 導師はそちらのご住職、両脇に同じく近所のお寺さんと私が侍る三人の僧侶による葬儀。開式後、ふだん通りにコトは運び、導師がタイマツを執って故人を荼毘に付す秉炬(ひんこ)という儀礼に及んだ場面だった。
 “ピリリリ、ピリリリ、ピリリリ”
 会場内から携帯の着信音が響いた。あわてて自分の携帯を確かめるために胸へ手をやるもの、バッグの中を探るものが数人。しかし音は続く。
 “ピリリリ、ピリリリ、ピリリリ”
 いったい誰だ、という顔をして辺りをふり返る者、まったく迷惑なことだと言わんばかりに眉をひそめる者。タイマツを回し始めた導師も、しばし空気が落ち着くのを待っているのか動きを止めている。
 “ピリリリ、ピリリリ、ピリリリ”
 おいおいいいかげんにしろよ、とでも言うように失笑する者も出始めた時だった。
 「ああ」
 ふと思い出したような声を挙げて導師が自分の法衣の袂から鳴り続けている携帯を取りだし、“ピ”と音を止めた。
 ど、どうしたらいいの・・、という空気が一瞬で堂内を占拠した。
 ところが導師は、まったく悪びれるようすもなくさっさとタイマツを回し始めた。